私が都心のデザイナーズマンションに引っ越したのは、去年の初夏の頃でした。壁一面がグレーのコンクリート打ちっぱなしで、大きな窓からは街の灯りが見えるその部屋は、まさに理想の住まいそのものでした。ミニマリストを気取っていた私は、家具を最小限に抑え、余計なものを置かない清潔な暮らしを心がけていました。コンクリートの壁は冷たくて清潔そうで、木造アパートのようにゴキブリが潜む隙間なんてどこにもないように見えたのです。しかし、引っ越しから一ヶ月が経ったある蒸し暑い夜、その過信は無惨にも打ち砕かれました。夜中にふと目を覚まし、キッチンの明かりをつけた瞬間、グレーの滑らかな壁面を素早く移動する黒い影を目撃したのです。私は絶叫しそうになるのをこらえ、震える手で殺虫剤を手に取りましたが、その影はあっという間に露出した配管の隙間へと消えていきました。なぜ、こんなに何もない清潔なコンクリートの部屋に奴が現れたのか、私はパニックになりながら朝まで一睡もできずに調べ続けました。そこで分かったのは、私が「スタイリッシュだ」と思い込んでいた露出配管や、壁と床のわずかな継ぎ目こそが、彼らにとってのメインエントランスだったという事実です。デザイナーズ物件は見た目の美しさを優先するあまり、実用的な防虫対策が二の次になっていることが少なくありません。例えば、我が家のエアコンの配管を通す穴は、コンクリートの質感を生かすためにあえて装飾的なカバーがされておらず、そこには数ミリの隙間が残されていました。また、コンクリートは冬でも室内の温かさを蓄えるため、外が寒くなっても彼らにとって居心地の良い暖房器具のような役割を果たしてしまうのです。私は翌日、すぐにホームセンターへ走り、グレーの壁になじむ色のパテと隙間テープを買い込みました。配管の根元、キッチンのシンク下の隙間、そして玄関ドアの下。それまで気づかなかった「都会の要塞」の綻びを一つずつ埋めていく作業は、まるで敗戦処理のような虚しさがありましたが、背に腹は代えられません。さらに、打ちっぱなし特有の結露を防ぐために除湿機を導入し、壁の隅々までアルコールで拭き上げました。あの日以来、幸いにも奴の姿は見ていませんが、今でも夜中に目が覚めると、グレーの壁に黒い影が走っていないか、反射的に確認してしまいます。コンクリートの美しさは、実はとても繊細なバランスの上に成り立っており、その無機質な空間を守るためには、目に見えない隙間を執拗なまでに警戒し、隙のない防衛線を張り続ける根気が必要なのだと痛感しました。